2021年6月17日木曜日

続 母について

  少し遡りますが私が生まれてからも、鹿児島から大阪の団地に引っ越したりの変化はありましたが、相変わらず母は家計を支えるため様々な病院で働いておりました。結果、私も幼少時から託児所に預けられ、家で親と過ごした記憶は少ないです。

 両親とも私への期待も大きかった反面、どちらも末っ子だったからか境遇が悪かったからか子供を育てる事に関しては下手だったと思います。特に母のしつけ方は厳しく(酷く)、今でこそ笑い話で語れますが、小学生から中学生までの間、とにかくヒステリックで不条理だらけでした。日頃から(今から思えば冗談なのですが)お前は橋の下から拾ってきた子だとか、離婚したらどちらについてくるだとか、親が死んだらお前も死ぬかなど日常言われていました。ある日の夕方、父が散歩に行こうと言うので

「あぁ、とうとう今日捨てられるんだ」

と思いこっそり泣いた記憶があります。結局親として愛情表現が下手だっただけですが子供としては辛い日々でした。

 この境遇を自分ながらに悩み、どうにか脱したいと思っていましたが、上手くいかない時は何をやっても上手くいきませんでした。ある親戚からも知恵遅れと揶揄されるほど、私は歪で孤独で風変わりな子供だったと思います。

 しかしこんな自分でも少数ですが話をしてくれる友人ができ、現実逃避するためにのめり込んだ文学や音楽から知識や考え方を吸収し、理論的思考、合理的解釈を身に付け自分なりに世界に対する哲学を構築できた事で心の平穏を得ました。私が高校生になった頃、やっと生活が安定し母も仕事を辞め、家に居て主婦をする事で温和にもなってきました。紆余曲折あったとは言え、曲がりなりにも私が獣医師になった事で両親はホッとしたと思います。

 このような経験は決して良いとは言えませんが、結果的には自分で考えて行動する人格形成にプラスに働いたと思います。自分の娘にはこのような躾はしませんが、人の苦しみは自ら体験しないと解らないというのが率直な感想です。優しくなるにはどんなことにも負けない強さが必要です。

 母が亡くなった後で、唯一後悔している点は、もっと色々話しておけば良かったという事です。会話下手な家族だったので、出来たかどうかは別に、率直に話してお互いの誤解を解いて理解したかったと思います。

 もう既に、誤解などなく分かっているのかもしれませんが。