2021年6月2日水曜日

父について

  父が始めたこの病院も来年で40年になります。私が小学生のある日、学校から帰ると平日なのに何故か家に父が居りました。裁縫などした事もないのにソファーを何やら縫っています。


 会社やめた、獣医をする


 この一言にあぁ、とうとう一家路頭に迷うなと思いました。それからの1年、子供の目には“ブラブラ”しているとしか見えませんでしたが実際には開業の為、今で言う代診修行に行っていたようです。


 兎に角、動物病院として今があるのは父のおかげですので、ここで父の歴史を書いておこうと思います。


 父は昭和10年、今の滋賀県甲賀市水口町に農家の三男に生まれました。中出家は遡ると治承寿永の乱のおり、平家側の将に使える家老として今の石川県から水口に落ち延びて来た直系の子孫です。

 父が幼少の頃はまだ戦争中で食糧難でしたので、将来食べることに困らないよう大学は畜産学科に入ったそうです。しかし大学卒業時は大変な不況下で国家公務員1種に合格したものの採用されなかったようです。


 失意の中、ここでブラジル移民に志願します。東山農場農業研修所、第一期研修生としてカンピーナスに旅立ちました。この東山農場は橋田寿賀子さんの「ハルとナツ」の舞台となった有名な場所です。

 そこで色々な仕事をしてみた結果、自分の体力のなさと将来性に見切りが付いたらしく2年余りで世界中を船で旅をしながら日本に帰国しました。


 その後、スーパーを計画したり、現エルビーの開発や工場を立ち上げたり、そこそこ仕事はするのですがイマイチ納得できなかったそうです。


 最終的に動物が好きだったので犬に関わる仕事として当時、日の出の勢いで成長していた「東京畜犬」に入ります。この会社の事については私が獣医になってからの方が肌身に感じるようになりました。何と言っても獣医師の中では今の企業病院並み、いやそれ以上の脅威だったようです。私が大学6年の時、大学病院の研修生だったある有名な病院の御子息に、話の弾みでこの会社の名前を出したところ、その場が一瞬で凍りつきました。日本小動物獣医師会の設立理由がこの団体の存在です。


 しかしここが父らしいのでしょうが、そこもじきに危ない気配を察知し、大事件になる前に退社しました。このままいけば惨敗の人生ですが、捨てる神あれば拾う神有り、この惨状に母校の教授も黙っていられなかったようで獣医科に学士入学させてもらえたようです。この時、ちょうど私が生まれました。世の中は大阪万博で浮かれ、知り合い(深くは関わってません)がテルアビブ空港で乱射事件を起こしたり波乱に満ちた時代でした。

 卒業後動物病院をすぐに開業とはいかず、製薬会社のダイナボット(アボットと大日本製薬の合弁会社)で営業の仕事を10年ほどしております。


 今、孫が医学科に入学し、新たな「なかで動物病院」のフェーズに入りました。今後将来的には、人と動物の医療が有機的に融合した全く新しい病院に発展していこうと思っております。


 父を反面教師として私が学んだ事は、いかに教育が大事であるかという事です。自ら知識を吸収し、常に考え、より良い結果を生み出す。少なくとも10年未来を想像し、備えていけば大きな間違いは犯さないのではないでしょうか。

 私が良い獣医であり続けようと思う原点にはこのような父がいるのです。