2021年6月23日水曜日

教育持論

  当院では、動物と人がより良い関係を保つのにはどの様にすればよいのか、絶えず考えてお話ししております。家族として迎えられた動物が、家族同然の待遇を受けられていない姿を見ることは非常に不快です。法律上でも禁じられている虐待などはもってのほかですが、計らずとも行ってしまう暴力的な躾についても、せっかくの愛情をマイナスにしております。犬や猫は非常に高い知能を持ち、感情もあります。ただ冗談や嘘は理解出来ませんので、信頼する家族が動物を裏切る言動を行うと、何を信じてよいのか解らなくなり混乱してします。知能が高い分、それでも折り合いをつけるため人に頼りながらも人を信じない行動をとるようになります。来院される特にわんちゃんでよく見られる行動です。

 ではどの様にすればよいのでしょう。

 まずは素直に愛情を伝えてあげてください。家族ですので愛してやまない事を示してあげることです。ただ、相手の動物にも人格がありますので、あくまでも相手の気持ちを察し尊厳を守って押し付けでないように考えてあげてください。絶えず愛されていることを感じていれば動物側から人を裏切ることはないでしょう。たとえその時に、人に都合の悪い行動をとったとしても、悪いと思って行動している訳ではないのです。何故その行動をとったのか人間側が考察し、その行動を取らなくてもいい様に考えてあげなければいけません。

 ただ家族として対等に分け隔てなく接するということは、甘やかすことではないです。過剰な報酬を与えるとどんどん怠惰になっていきます。お互いにフェアトレードに付き合うことでウィンウィンの関係が作られます。特に犬には出来ていないのにむやみには褒めないでください、犬や猫も言葉を理解していますので間違った報酬を与えていることになります。

 躾は人と同じだと思います。絶対的な愛情による信頼。理論整然な説明により理解をさせることで子供は健康に育っていきます。整合性のない理由で納得しろといっても土台無理な話です。

 そして最後にとても重要な事ですが、いつも明るく楽しい雰囲気を感じさせてあげてほしいです。どんな状況でも、この家族がいれば大丈夫なんだと言う安心感を与えてあげてください。

2021年6月17日木曜日

続 母について

  少し遡りますが私が生まれてからも、鹿児島から大阪の団地に引っ越したりの変化はありましたが、相変わらず母は家計を支えるため様々な病院で働いておりました。結果、私も幼少時から託児所に預けられ、家で親と過ごした記憶は少ないです。

 両親とも私への期待も大きかった反面、どちらも末っ子だったからか境遇が悪かったからか子供を育てる事に関しては下手だったと思います。特に母のしつけ方は厳しく(酷く)、今でこそ笑い話で語れますが、小学生から中学生までの間、とにかくヒステリックで不条理だらけでした。日頃から(今から思えば冗談なのですが)お前は橋の下から拾ってきた子だとか、離婚したらどちらについてくるだとか、親が死んだらお前も死ぬかなど日常言われていました。ある日の夕方、父が散歩に行こうと言うので

「あぁ、とうとう今日捨てられるんだ」

と思いこっそり泣いた記憶があります。結局親として愛情表現が下手だっただけですが子供としては辛い日々でした。

 この境遇を自分ながらに悩み、どうにか脱したいと思っていましたが、上手くいかない時は何をやっても上手くいきませんでした。ある親戚からも知恵遅れと揶揄されるほど、私は歪で孤独で風変わりな子供だったと思います。

 しかしこんな自分でも少数ですが話をしてくれる友人ができ、現実逃避するためにのめり込んだ文学や音楽から知識や考え方を吸収し、理論的思考、合理的解釈を身に付け自分なりに世界に対する哲学を構築できた事で心の平穏を得ました。私が高校生になった頃、やっと生活が安定し母も仕事を辞め、家に居て主婦をする事で温和にもなってきました。紆余曲折あったとは言え、曲がりなりにも私が獣医師になった事で両親はホッとしたと思います。

 このような経験は決して良いとは言えませんが、結果的には自分で考えて行動する人格形成にプラスに働いたと思います。自分の娘にはこのような躾はしませんが、人の苦しみは自ら体験しないと解らないというのが率直な感想です。優しくなるにはどんなことにも負けない強さが必要です。

 母が亡くなった後で、唯一後悔している点は、もっと色々話しておけば良かったという事です。会話下手な家族だったので、出来たかどうかは別に、率直に話してお互いの誤解を解いて理解したかったと思います。

 もう既に、誤解などなく分かっているのかもしれませんが。

2021年6月15日火曜日

母について

  私の母は一昨年の終戦記念日に和泉市立総合医療センター 緩和病棟の病室にて亡くなりました。病名は小細胞肺癌、判った時には既に全身に転移しておりました。83年の人生は人によっては充分なのかもしれませんが、母はまだまだ生きたかったようでした。孫の成長を誰よりも楽しみにし、医学科合格を心待ちにしておりました。この思いはおそらく母自身が成し遂げられなかった夢であったのかもしれません。

 母は人の看護師で、遡れば母方は元々広島県庄原の紙を扱う問屋だったそうです、宮内省御用達品だったらしいのでそこそこ大きくやっていたのでしょう。母の祖母は医者の家に嫁ぎ、ここでも割と裕福な家庭が築かれたそうです。しかし医師である母の祖父は根っからのお人好しで、困った人がいたら自分の着物を与えて助け、最後には人の保証人になり財産を失ったらしいです。この家の一人娘が私の祖母になります。お人好しの家庭で何の苦労もなく育った祖母は輪にかけてのお人好しだったのは想像に難くない事です。家柄だけを宝に祖母が嫁いだ相手は当時国鉄の偉い方だったらしく、母が幼少の頃育った小倉の官舎では、行儀見習さんや書生などに囲まれ、靴は銀座のフルオーダー、人に履かせてもらうようなお姫様状態だったと語っておりました。このまま戦争がなければ、恐らく私は生まれていなかったでしょう。

 戦争末期になると小倉では危ないため熊本に疎開していたそうですが、父とは違いかなり酷い体験をしたそうです。腎炎を患って病院へ通う途中、米軍の艦載機に機銃掃射で追い回され殺されかけた事(この時のパイロットがガムを噛みながら笑っていたと悔しそうに何度も話していました)、官舎の近くの工場に1トン爆弾が落ち、その時働いていた女子挺身隊の若い女工さんたちが避難した広場の防空壕(当時は穴を掘っただけの所に数百人が固まっていたらしいです)で直撃を受けバラバラになった遺体から遺品を集めに人々が動員された事、汽車に乗っていて艦載機が飛んできたら、直ぐに降りて汽車の下に潜り込むのですが、運悪く弾が当たる人が必ずいるのが日常茶飯事だった事、田舎の小学校に疎開したので酷いいじめにあった事、など挙げればキリがないほどです。戦後も食糧難で父とは違い都会育ちの家族だったので高価な財産を二束三文で食料に交換し飢えを凌いだそうです。まだまだ不幸は続き、お人好しの私の祖母が脳卒中で急死すると、私の祖父は後妻を迎えて家族離散してしまいました。

 その後は母の兄が大学進学を諦め、当時いた鹿児島県の銀行に就職し兄弟姉妹を育て上げました。母は学業はよくでき当時トップ校だった甲南高校にいましたが、働くために現 国立病院機構鹿児島医療センター附属看護学校に入学しました。甲南高校の同級生で友達だった方に元法務大臣 南野知恵子さんがおります。同じ看護師の道を歩んだのですが、母は鹿児島大学時代に父と出会ったことにより運命が別れます。前の記事で書いたようにかなり勝手な父に振り回され職場を変わり、最終、堺医師会准看護学院(現 堺看護専門学校)の教務主任で看護職を終わりました。

続く

2021年6月2日水曜日

父について

  父が始めたこの病院も来年で40年になります。私が小学生のある日、学校から帰ると平日なのに何故か家に父が居りました。裁縫などした事もないのにソファーを何やら縫っています。


 会社やめた、獣医をする


 この一言にあぁ、とうとう一家路頭に迷うなと思いました。それからの1年、子供の目には“ブラブラ”しているとしか見えませんでしたが実際には開業の為、今で言う代診修行に行っていたようです。


 兎に角、動物病院として今があるのは父のおかげですので、ここで父の歴史を書いておこうと思います。


 父は昭和10年、今の滋賀県甲賀市水口町に農家の三男に生まれました。中出家は遡ると治承寿永の乱のおり、平家側の将に使える家老として今の石川県から水口に落ち延びて来た直系の子孫です。

 父が幼少の頃はまだ戦争中で食糧難でしたので、将来食べることに困らないよう大学は畜産学科に入ったそうです。しかし大学卒業時は大変な不況下で国家公務員1種に合格したものの採用されなかったようです。


 失意の中、ここでブラジル移民に志願します。東山農場農業研修所、第一期研修生としてカンピーナスに旅立ちました。この東山農場は橋田寿賀子さんの「ハルとナツ」の舞台となった有名な場所です。

 そこで色々な仕事をしてみた結果、自分の体力のなさと将来性に見切りが付いたらしく2年余りで世界中を船で旅をしながら日本に帰国しました。


 その後、スーパーを計画したり、現エルビーの開発や工場を立ち上げたり、そこそこ仕事はするのですがイマイチ納得できなかったそうです。


 最終的に動物が好きだったので犬に関わる仕事として当時、日の出の勢いで成長していた「東京畜犬」に入ります。この会社の事については私が獣医になってからの方が肌身に感じるようになりました。何と言っても獣医師の中では今の企業病院並み、いやそれ以上の脅威だったようです。私が大学6年の時、大学病院の研修生だったある有名な病院の御子息に、話の弾みでこの会社の名前を出したところ、その場が一瞬で凍りつきました。日本小動物獣医師会の設立理由がこの団体の存在です。


 しかしここが父らしいのでしょうが、そこもじきに危ない気配を察知し、大事件になる前に退社しました。このままいけば惨敗の人生ですが、捨てる神あれば拾う神有り、この惨状に母校の教授も黙っていられなかったようで獣医科に学士入学させてもらえたようです。この時、ちょうど私が生まれました。世の中は大阪万博で浮かれ、知り合い(深くは関わってません)がテルアビブ空港で乱射事件を起こしたり波乱に満ちた時代でした。

 卒業後動物病院をすぐに開業とはいかず、製薬会社のダイナボット(アボットと大日本製薬の合弁会社)で営業の仕事を10年ほどしております。


 今、孫が医学科に入学し、新たな「なかで動物病院」のフェーズに入りました。今後将来的には、人と動物の医療が有機的に融合した全く新しい病院に発展していこうと思っております。


 父を反面教師として私が学んだ事は、いかに教育が大事であるかという事です。自ら知識を吸収し、常に考え、より良い結果を生み出す。少なくとも10年未来を想像し、備えていけば大きな間違いは犯さないのではないでしょうか。

 私が良い獣医であり続けようと思う原点にはこのような父がいるのです。