2021年6月15日火曜日

母について

  私の母は一昨年の終戦記念日に和泉市立総合医療センター 緩和病棟の病室にて亡くなりました。病名は小細胞肺癌、判った時には既に全身に転移しておりました。83年の人生は人によっては充分なのかもしれませんが、母はまだまだ生きたかったようでした。孫の成長を誰よりも楽しみにし、医学科合格を心待ちにしておりました。この思いはおそらく母自身が成し遂げられなかった夢であったのかもしれません。

 母は人の看護師で、遡れば母方は元々広島県庄原の紙を扱う問屋だったそうです、宮内省御用達品だったらしいのでそこそこ大きくやっていたのでしょう。母の祖母は医者の家に嫁ぎ、ここでも割と裕福な家庭が築かれたそうです。しかし医師である母の祖父は根っからのお人好しで、困った人がいたら自分の着物を与えて助け、最後には人の保証人になり財産を失ったらしいです。この家の一人娘が私の祖母になります。お人好しの家庭で何の苦労もなく育った祖母は輪にかけてのお人好しだったのは想像に難くない事です。家柄だけを宝に祖母が嫁いだ相手は当時国鉄の偉い方だったらしく、母が幼少の頃育った小倉の官舎では、行儀見習さんや書生などに囲まれ、靴は銀座のフルオーダー、人に履かせてもらうようなお姫様状態だったと語っておりました。このまま戦争がなければ、恐らく私は生まれていなかったでしょう。

 戦争末期になると小倉では危ないため熊本に疎開していたそうですが、父とは違いかなり酷い体験をしたそうです。腎炎を患って病院へ通う途中、米軍の艦載機に機銃掃射で追い回され殺されかけた事(この時のパイロットがガムを噛みながら笑っていたと悔しそうに何度も話していました)、官舎の近くの工場に1トン爆弾が落ち、その時働いていた女子挺身隊の若い女工さんたちが避難した広場の防空壕(当時は穴を掘っただけの所に数百人が固まっていたらしいです)で直撃を受けバラバラになった遺体から遺品を集めに人々が動員された事、汽車に乗っていて艦載機が飛んできたら、直ぐに降りて汽車の下に潜り込むのですが、運悪く弾が当たる人が必ずいるのが日常茶飯事だった事、田舎の小学校に疎開したので酷いいじめにあった事、など挙げればキリがないほどです。戦後も食糧難で父とは違い都会育ちの家族だったので高価な財産を二束三文で食料に交換し飢えを凌いだそうです。まだまだ不幸は続き、お人好しの私の祖母が脳卒中で急死すると、私の祖父は後妻を迎えて家族離散してしまいました。

 その後は母の兄が大学進学を諦め、当時いた鹿児島県の銀行に就職し兄弟姉妹を育て上げました。母は学業はよくでき当時トップ校だった甲南高校にいましたが、働くために現 国立病院機構鹿児島医療センター附属看護学校に入学しました。甲南高校の同級生で友達だった方に元法務大臣 南野知恵子さんがおります。同じ看護師の道を歩んだのですが、母は鹿児島大学時代に父と出会ったことにより運命が別れます。前の記事で書いたようにかなり勝手な父に振り回され職場を変わり、最終、堺医師会准看護学院(現 堺看護専門学校)の教務主任で看護職を終わりました。

続く